2016/07/07

ヒメコウホネ




「小ぶなとるわらはべ去りて門川の 河骨の花目高群れつつ(正岡子規)

高山市某所ではいま河骨(コウホネ)の花が見ごろだとか。
暑い日が続くと川面に漂う愛らしい花に束の間の涼を求めたくなりますよね。

以前、友人が
『絶滅危惧種』に指定されている姫河骨(ヒメコウホネ)の群落を見せてくれるというので
抱えていた仕事も手いっぱいで、気持ちが焦ってあまり気が進まなかったのですが
せっかく誘ってくれたのだからと、思いきってついていきました。




こんなところに道があるのかと思う藪の中を右へ左へ。
ずいぶん歩いたと思いましたが、着いた場所はなんと
いつも通る街道の真下に当たる金華山の麓の谷川でした。

澄んだ流れの中にさやさやと揺れる真黄色の小さな花・・花、花。
あのときの、何か、洗い流されたような感覚を
いまもくっきりと思い出すことができます。

ゆとりが無く、季節の移り変わりにも鈍感になって
匂いも色も音も感じない、物の味もわからないほど疲れきっている私を
心配して誘ってくれたのだと、友の気持ちがありがたかったです。

河骨は、水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えるので
河骨(かわほね)と呼ばれ、(こうほね)に変化したということです。

蓮や水連も然り、愛らしい花の根茎は思いのほか逞しく深い。
そんな姿に触れるたび、すごいなあ、たいしたもんだなあと思うのです。

2016/05/12

河原母子草

「老いて尚なつかしき名の 母子草(高浜虚子)」


河原母子草

















先日毟ったはずの母子草が、
この雨で生き生きと立ち上がってきました。
黄色の頭をすっくともたげた逞しい様に、ただただ見とれてしまいます。

花言葉は「無償の愛」
名前の由来のひとつには、葉や茎が白い綿毛をかぶっている様子が
母親が子を包みこむように見えたことから
母子草(ハハコグサ)の名がついたという説があります。

若苗は綿毛におおわれ、冬から早春に地面にはりつくように生えています。
畑地、原野、道端などどんな土地でもどんな様でも生きていく。


日本のいたるところ、人里の道ばたに生息する黄色い小さな粒上の花は
阿蘇山の噴煙の麓にも、変わらず咲いているのでしょうか。

地震から一か月になろうとしています。
一日も早く日常の暮らしが取り戻せますよう心からお祈りしております。

2015/10/26

金木犀


「歩みきてふとしも匂へ山の手の 日の照る坂の木犀の花(太田水穂)」
 
 
 
どこからともなく漂ってくるなんとも言えないふくよかな金木犀の香り。
生け垣の奥、家の曲がり角。
そんな普段は見過ごしてしまうような場所で
黄金色の小さな花は、今を盛りと秋の陽の中で輝いて見えます。
 

幽霊になった男の話をしよう・・・という不思議な書き出しで始まる物語
『星の時計のLiddell』の中で、主人公の夢の中に現れる少女がつぶやきます。
「ああ、 名前を聞いただけでも香りがするみたい
あれは 空気がきれいに澄んでないと花をつけないの
そう、ちょうど今頃の季節に咲くんだわ


 ’80年代に活躍した漫画家「内田善美」は
『星の時計のLiddell』を最後に断筆しました。

10月28日は彼女の生誕日。現在の消息は不明です。

どこから漂ってくるのかわからない
なんとも言いようのない金木犀の香りを嗅ぐたび
わずか10年足らずの陽の中に輝き
咲きぬけていった一人の漫画家を思い出します。
                             

2015/06/20

沙羅の木の花


沙羅双樹しろき花ちる夕風に人の子おもふ凡下(ぼんげ)のこゝろ(与謝野晶子)


沙羅の木(ナツツバキ)


家の軒先
生け垣の向こう
社の境内・・・・

あちらこちらで
沙羅の木が
花を咲かせています。

この花が咲くと、
ああ、
今年もまた
夏が来るなあと思います。







和名「夏椿」と呼ばれる白い花は、一日で散ってしまう儚さから
「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす(平家物語)」と表されました。

いつのころからか
薄く透き通るような白い花弁をそのままに、
まるで、ただそこに置かれたように散るこの花の有り様に
強くこころ惹かれるようになりました。

朝に咲いた花が、夕には落ちるのは儚くもありますが、
また早朝には新たなつぼみが咲き開いてきます。

それは新しい1日の始まり、
今日を生きることへの溢れる喜びを歌っているようにも見えるのです。

 一期一会、今日という日を沙羅の花のように生きていけたらなと思います。

2015/03/10

記憶の狭間


「若き日の夢はうかびく沈丁花 やみのさ庭に香のただよへば(佐々木信綱)」

 
庭椿 霜に逢っていっそう鮮やか


梅、杏、沈丁花...春は香りとともにやってきます。
美濃飛騨こぶし街道もずいぶん寒さが緩んで来ました。















雑踏の中を歩く バスを降りる
目覚めて窓を開ける 行き過ぎる電車を待つ・・

そんなふとした瞬間に、どこからともなく漂ってくる香りに
遠い日のあこがれや夢が呼び起こされて、胸が痛くなるようなことがあります。

冒頭の歌は、そんな心象を見事に切りとって、いつ読んでも、
まるでいま自分がそこに佇んでいるかのような錯覚を覚えます。

香り・匂い・音・メロディ、陽光・風・水・火と土、そして大気
感性を揺さぶるさまざまなものたちは
記憶の狭間を刺激して私たちを原風景へと誘い出します。

ずっとずっと大切にしてきたもの。
すべてのエネルギーを注いで恋焦がれたもの。

追い求めて続けてきたそれらのものは
実は初めからとても近くにあってただ気がつかなかっただけなのかもしれない。

春の宵、ぼ~っとした頭で、ぼんやりとそんなことを思いました。
 

2015/02/07

なぞは謎のまま

「梅の花 香をかぐはしみ遠けども 心もしのに君をしぞ思ふ(市原王)」
(梅の花香に惹かれるように遠く離れているけれど、心はいつも貴方に寄せているのです)
 
待ってたよ クリスマスローズ
雪で覆われていた庭も、いまはスノードロップやクリスマスローズが愛らしい姿を見せてくれています。寒い寒いと言いながらも確かに春はそこまで来ているんですよね。

昨年末に見つけた庭に埋められたおおきな柿「富士山」
実は1月の末に、ちゃっかり何ものかが掘り出して行きました。

その日は明け方からしょぼしょぼ雨が降っていました。朝までは雪に覆われていたのにお昼には雪が解けて、ひょっとして・・と思って見に行ったら、ポッコリと穴があいて柿は消えていました。

 

どこかから見てたのかしら。ほんとにビックリです。
 
聞くところによると、猿は取って食べるだけ。埋めたりしない。騒々しく食べ散らかした跡は猿の仕業だといっぺんで分かるそうです。

おそらく栗鼠かうさぎではないか・・・とのことでしたが、なぞは謎のまま。
来年もやって来てくれることを祈って、楽しみながら待つとしましょう。

2015/01/12

夜中の訪問客

「我が宿の冬木の上に降る雪を 梅の花かとうち見つるかも(万葉集)」


昨年末から思わしくなかった体調が、年明けにがっくりと崩れてしまい、
とんだ新年のスタートになってしまいました。
みなさま、お変わりなくお過ごしでしょうか。



















暮れにドカンと降った雪で覆われてしまった庭も、
このところの陽気でようやく土肌を見せるようになりました。
あー、あったかいって嬉しい!

そういえば昨年末に面白い物を見つけました。
早朝、いつものように庭先を歩いていると何だかこんもりと土が盛ったようになっています。

いつもは見かけないので、不思議に思って何気なく土を平らに慣らそうとしたところ、中から大きなおおきな立派な柿が出てきて、もうほんとうにビックリ!

この柿は、通常では渋くて食べられないために、吊るして干し柿にしたり
そのまま熟するのを待って食べたりする確か「富士山」という種類で
どこをどう間違っても土の中には生らないはず・・・??

さては、夜中に山からの訪問客が密かに柿を埋めて行ったのかしらん・・・
タヌキ?キツネ?イノシシ?それともシカ?
シカやカモシカならコロコロ糞が落ちてるし・・・まさか、家のわんこ達じゃないよね!?

そこで思いだしたのがお伽噺「さるかに合戦」
ああ、そうだった。お猿さんは柿が大好きだった!!
ガッカリさせちゃいけないから、柿は元の場所に埋めておきました。

食べ物のない冬のためにとっておいたはずの大きな柿
ドカンと降った雪が埋めてしまってとりに来れなくなったのか
こうやって埋めたままお猿さんが忘れたのが、新しく芽を吹いて柿の木になるのかしら。

2014/10/30

古(いにしえ)の花

おはようございます。今日もすっきり晴れましたね。
みなさまお変わりなくおすごしでしょうか?
飛騨から岐阜への街道沿い、どこまで続くの?と言いたくなるほど
セイタカアワダチソウが群れています。
御嶽山の白い噴煙の麓にも、変わらずこの花が揺れているのでしょうか。

噴火でお亡くなりになられた方々、そのご家族の皆さまに
謹んでお悔やみを申し上げます。
また、怪我を負うなど被害に遭われた皆さまに心からお見舞い申し上げます。

東白川街道 緋もみじ

















セイタカアワダチソウ・・誇らしげに天を衝くような真っ黄色な鉾。
このたくましくスックと伸びた姿も好きですが
良く似た黄色でも、少し弱よわしげな女郎花(オミナエシ)に心惹かれます。
別名「思い草」と呼ばれ、万葉の時代からたくさん詠われてきました。

「をみなへし 秋の野風にうちなびき 心ひとつをたれによすらむ(藤原時平)」
(女郎花よ、秋の野を吹き過ぎる風になびいて、一心に誰に思いを寄せているのだ)

女郎(じょろう)とは、本来貴族の令嬢・令夫人を称した一種の敬語だったそうです。
枝先に黄色の小花を揺らし、少し首を傾けたようなさま・・
茎をすらりと伸ばし、秋風にしなやかに揺れる立ち姿は、
さぞかし情感を揺すぶられるものだったのでしょう。

たおやかで儚げ・・風に扇が舞うような様を見ていると、
遥かな古から多くの歌人にこの花が愛されてきたのもわかる気がします。

2014/04/14

やまざくら花

「とほ山の峰越の雲のかがやくや 峰のこなたの山ざくら花(若山牧水)」

朝まだき、飛騨街道に車を走らせていると、遥かな峰のかなた
水面にたちこめる朝靄の中から朝日に照らされた山桜が浮かび上がります。
幽玄な様にうっとりしますが、春は足早。みなさまいかがお過ごしですか?
金山町四つの滝

牧水の和歌は旅情に溢れ、よむ者に郷愁を呼びさまします。

朝霧が立ち上る水面、極寒の山間に響き渡る梢のきしみ
ひそやかな水の音、射し込む陽光、逢魔ヶ時の気配
暮れなずむ街のぼうとした明かり そして雪の影・・・
忘れ去り 封じ込めてきた心の原風景のなかを
せつないやるせなさを伴なって、つかの間の安らぎへと誘ってくれます。

美しい春です。時には日常を離れちょっとした旅にお出かけしたくなります。
では、よい一日を!

2013/12/15

逢い見ての

「逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり(権中納言敦忠)」

梅林公園にて

激しい恋心を詠った歌ですが
男女の間柄にかかわらず
その人との出会いが
自分の人生に
大きな変化をもたらしたということは
どの時代
どの人にも等しく通じること。


来年もみなさまに
素敵な出会いが訪れますように。


2013/05/17

イワウチワ

イワウチワ


忘却とは忘れ去ることなり。
忘れ得ずして
忘却を誓う心の悲しさよ。
(菊田一夫)















君の名は・・・

ふと立ち寄った東屋の庭に、ひっそりと佇んで
まるで、ふるえているような花弁。

いつ訪れるとも知れぬ人を待ち続けて
名前も明かさず、春の宵闇に溶け込むように
ただ、あるがままに其処に居る。

こんな生き方もあるんだなあ・・・と思いました。
また、どこかできっと逢えますように。

 

2013/01/29

春を誘う


みづからが もて来りたる 蕗の薹  あまつ光に むかひて震ふ(斉藤茂吉)



















藪蔭の小径を抜け 雪溶けの沢でふきのとうを見つけました。

ふっくらと丸みを帯びたつぼみは

手にとると意外に重くてはっとさせられます。


早朝の凍えるような寒さの中で、

茶色の枯れ葉の中からひょっこりと顔をだした浅黄色の小毬。


小さなからだの中にいっぱいのエネルギーを溜めこんで

ちょこんと微笑んで座っている愛らしい姿に

思わず、ほおずりしたくなりました。


思いがけない早春の兆しに

かじかんだ指までが温かくなるようでした。



2012/09/20

寂しききわみ


吾木香 すすきかるかや 秋くさの さびしききはみ 君におくらむ (若山牧水)
























ワレモコウ・・・吾亦紅、割木瓜、我毛香とも書きます。

暗紫紅の花穂。
愛らしい形容と、どこか哀愁を帯びた美しい響きに惹かれます。

秋の深まりと共に紅を濃くしてゆく吾亦紅は、
オミナエシやススキに添えると、不思議と存在感を増します。


若き牧水は、この歌を恋人園田小枝子にあてて詠みました。

花言葉は「愛慕」

両腕を広げたような独特の立ち姿で、
誰かの傍らに寄り添って
はじめて、そのひそやかな想いを放つのでしょうか。



2012/07/02

天の川

天の川 相向き立ちて 吾()が恋ひし 君来ますなり 紐解き設(ま)けな 
(山上憶良)






















梅雨の晴れ間を心待つのは、牽牛や織姫ならずともですね。
万葉集には天の川の歌が130首余り残されています。

恋しい人が来る川に向かい、そのまみえる時を想って
身を焦がしながら、衣を解いて待っている・・・・・

なんというおおらかで素直な愛情表現でしょう。

牽牛と織姫・・この天上の恋人たちの逢瀬を、現実の庶民のものとして詠った憶良は
社会派歌人として貧しい人たちに情を注ぎ、苦しい生活や家族の情愛を詠みました。

率直に想いを言葉にした古(いにしえ)の万葉人の姿は、わたしたちに
気持ちを伝えることの原点を示してくれている気がします。



2012/06/16

花いばら

 
 愁いつつ岡にのぼれば花いばら(与謝蕪村)


蕪村59歳の作品です。












あれこれと思い悩みながら歩いて行った道の彼方
小高い丘を登りきった目前に、一面広がった花いばら・・・。

色彩豊かでロマン溢れる情景が目に浮かびます。


決して裕福な境遇ではなかった蕪村は、なにげない日常の
ささやかな風物の中に「抒情」を写しとる画家でもありました。

齢還暦を迎えようと言う彼は、何をこころにこの句を詠んだのでしょう。
何度読んでも青年の心象風景のように鮮やかに映りこんできます。


若き日の彷徨いは、それはそれでやり切れぬ重さを伴なって
その身を覆うものですが、
年を重ね、確固として信じて来た自分が
ひとたび、社会的な居場所や存在感が感じられないと思う時、
それはうつろいにとどまらず、気がつくと焦燥感や不安となって
深淵へ向かう鉛蔓のように、からみつき侵食してくるのかもしれません。


こころが萎えたり傷ついたりすると、人はどうしても
自分が生きる意味や
生きる価値、そこに存在する理由を求めてしまいます。

幾つであっても、何ものであっても、
ひとは、そこに”ある”だけで、ただそれだけで素晴らしいのに。


明日、この雨があがったら、あぜ道を抜けて
あの小高い丘まで行ってみようかなって思います。